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2026年3月12日(木)
今日から毎朝ラジオ体操をすることにしましょう、という話を昨晩していて、こういう約束は往々にして守られないものだけれど、今日はめずらしく宣言通り実行することになった。日の差す部屋に響きわたる軽快なYouTubeの音楽、物事のはじまりはタイミングが大事、起きてすぐの、まだ朝ごはんを食べていないからだはちゃんと息切れする。一緒に運動した人はそのまま家を出て、わたしはひとりで食パンを焼いて食べた。
参加している西大島の展示の在廊へ。平日の昼間は当然お客さんが少ないけれど、ゆったり時間をかけて作品を見てくれる人の気配を感じるたびにあんしんする。スタジオのスタッフの方と話したとき、美術館は自分のタイミングで見ることができる(途中で見るのをやめたり、一旦会場を出たりすることもできる)ところが好きだと教えてくれた。今日はこれから演劇を見に行くんです、と話す。いいですね。でも劇場は、それを見るためにはその時間分、定められた場所にいないといけないから、体調がかなり良いときしか行けないんです。はい、すごく共感します。そのとき、その場所に自分のからだを持っていく、というのはほんとうに負荷がかかることだと、一昨日国会前に行ったときも、昨日黙祷をした後にひらいたSNSを見ていたときにも思ったのだった。
吉祥寺シアターで、円盤に乗る派『「いまのところまだ存在しているわたしのたましいが……」』初日。暗いステージに白が浮かび上がる、椅子、机、人、知らない手ざわりの世界観、「たましい」という存在が科学的に解明された近未来の物語だ。本作における「たましい」は、わたしたちを構成する原子のひとつひとつ、この空気中にも、ちいさな埃や塵のように無数に存在しているものだという。ところでわたしは、「からだはたましいの容れもの派閥」として、ここ数ヶ月いろいろな人と話をしてきた。たましいとからだ、という二元論の話をしたいわけではなく、自分が他者や世界と関わりをもとうとするとき、自分の核はどこにあり、どのようなしくみで成り立っているのかを説明するために、わたしはよくこの言葉を用いる。しかし本作においては、ひとつひとつの固有のたましいが宿っているのではなく、微弱なたましいが集まって人間や物のかたちを成しているということらしい。なるほど、わたしは物心ついたときから輪廻転生、つまりこのたましいがこのたましいのままで別のいきものに生まれ変わることを信じていたわけだけれど、劇中で引用される「王様だとかエライ人でも死んだら土に還っていつかはビールの栓にでもなっちゃうヨー」(学がなくてあとから人に聞いたけれど、これはシェイクスピア『ハムレット』より、とのこと)というせりふからも、わたしの想像していたそれではないことがわかる。わたしたち、別のタイプの考え方ですね、と思いながら舞台を見つめる。たましいの一時的な形態を見つめる。
物語は、しっかりと物語らしい展開を踏んで進んでいく。そのころわたしは、この物語世界におけるたましいのイメージ、その粒径やかたちのことを考えていた。測れるものと測れないもの、名前をつけられるものとつけようがないもの。思いもよらないことが起こるとき、あるいは起こるべきことが起こらないとき、人類はあらゆる文脈で「業」や「運命」の名前を与える。サイエンス・それからフィクション。もちろんわたしだって、自分の目で見たものだけを信じるという気持ちのことを知っている。科学の論理や数値に変換することで生まれる共有知のことを知っている。たましいが、あるいはその人やものたらしめる何かが、目に見えて、ふれることができるものだったら、もう少し世界はだいじょうぶだったのだろうか、ということを、これまでたびたび考えてきた。しかし、美術や演劇、文化、文明は、測れないものたちの集積でもある。参照する言葉を見つけては、それを引きながら、目が合った人に何かを伝えようとする。むしろフィクションであってほしいほど惨いことばかりが起こる世界で(最近は、みたいに言うけど、わたしたちが知らなかっただけかもしれない)、わたしたち一人ひとりのからだではどうにも太刀打ちができなくて(太刀打ちなんてそもそもずっとできていなかった)、想像力の働きすら信用できるものではなくなって(想像でからだは傷つかないのだから!)、わたしたちはむしろ、目に見えないもの、例えばたましいの話をするようになった。
世界のバグとして生きることがゆるされた人々に残された道は何だろうか? バグによってわたしたちが出会えたことを、どのように受け入れるべきだろうか。そんな思考を行き来しながらわたしたちは懲りずに集まって、さわることができないはずのものにせーのでさわろうとしている。尺度が存在しないものを、目には見えないものを、からだの運動を駆使して、ここ存在することを証明しようとする。集まることから、ここに集まることができなかった人やいきものたちのことを考えることができる、のだろうか。ラストシーン、変容したのは(人間、あるいはゾンビの)たましいだったのか、あるいは別の何かだったのか、わたしにはよくわからない。それを問うことばに、それらを説明する意味の集合体に、分かち合うための尺度があるかどうかも、わたしにはまだわからない。ただ、平日夜の吉祥寺シアターの客席の赤いシートが、家から着てきた一人ひとりの上着の布地とこすれ合っていたことだけはわかる。
終演後、友人が連れて行ってくれた沖縄料理屋で「スク豆腐」という料理をはじめて食べた。一口大に切られた島豆腐の上に乗っているのは、アイゴの稚魚の塩漬けだという。親指の爪と同じくらいの大きさのたましいが、もう生きていないはずの瞳で、こちらをじっと見つめている。
©Chiharu Shibanuma